
情熱とエネルギーの塊のような!第29回北京オリンピックも無事に終わり、暑さも一段落かと空を見上げると蜻蛉の乱舞に秋を感じています。今回はタイミング的にもオリンピックと、情熱を、取り上げて四季短信を辿ってみました。
「私達は新婚家庭の第一歩を、大森東三丁目「たかね荘」でスタートする。〜(第18回)東京オリンピックの開会式の飛行文字を、妻と二人で窓から眺めていた。〜人生は不思議、広島の片田舎で生を受け、朝鮮で育ち、戦後の引揚者の私が、因果とは言え大森に30年近くも住み着いている。そして私に残された人生の、喜びや悲しみが、これからも大森と共にあるだろう。」(昭和61年2月 第26号)
「(第24回)ソウルオリンピックをあとわずかにした金浦空港は見違えるほど立派になっていた。昨年春以来、広芸サービスソウル営業所設立にかけて数回にわたり渡韓したが、国を挙げてのオリンピックに対する熱意が肌で感じられる。空港からソウル市内へ向かう車窓にはプラタナスの新緑が映え、道行く人々は活気に満ち溢れている。」(昭和63年7月 第55号)
東京オリンピックから早や半世紀が過ぎオリンピックにかかわる思い出の人達や、エピソードは枚挙に遑がありません。オリンピック強化選手だったと言う、「長島前逗子市長」との出会いを始め、ソウルへと導かれたのは「杉本正さん」との出会いからでした。そして日頃よく口にしていた言葉が耳に残っています。「オリンピックは参加することに意義があると言うが、たとえ選考にもれて参加できなくても、夢に向かって頑張ったという努力と情熱(のプロセス)は、人生の宝になるだろう。」と言っていました。彼は青春時代に大病を患い、大きな手術をしました。その所為で、いつも体力的なハンディを意識しながら、それでもぎりぎりまで情熱を力にして頑張る人でした。
「私の健康法の根底は、いつまでも心だけは「青春」でありたい、と願っていることだと思う。走れば、年齢の若い人には敗けるだろうし、酒の量も、やはりかなわない。しかし、精神の若さだけは、絶対に敗けない。そう思っている。おめでたいオジンかもしれないが、若い情熱だけは、幾才になろうとも燃やし続けたい。」(昭和58年12月 第1号)
「私は夢を失ったことがない。お芽出度い話だが、どんな逆境苦境にあっても、突拍子のない夢を持ち続けていた。生きる力がそこから湧いて来ていたに違いない。今でも同じだ。年令に関係なく、職業に関係なく、どんな生活環境にも関係なく、人は常に夢を追い求めていけばいい。夢、言葉をかえれば生きる情熱を失ったとき、人生に終焉がやって来る。」(平成元年5月 第65号)
「年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時、老いるのである。歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失う時に精神はしぼむ。」彼は、サムエル・ウルマンのこの「青春」という詩の一節が好きで、四季短信でも繰り返し引用しています。
まだまだ終わりそうにない、暑い夏の何日かを、情熱を探して四季短信を繰りました。彼は夏に生まれた所為か、冬より夏を好み、いつも夢見る青年でした。20年も続いた四季短信です。同じようなメッセージが幾度も出てくると思われるでしょうが、彼にとっては、いつも「今」の感慨であり、強い信念のメッセージなのです。





















